仏教簡史
情報更新は:2002年4月4日
日本語翻訳者:平 光慈(福井 専照寺)
  

起源
起源  佛教创建时,印度已经进入了封建领主统治的农奴社会。当时印度传统的吠陀天启、祭祀万能和婆罗门至上三种信仰,以及婆罗门作为一切智的垄断者和神权统治的代表的地位开始动摇,成为众矢之的。自由思想家中出现了种种反传统信仰的沙门思潮。
佛教属于沙门思潮之一。创始人释迦牟尼生于今尼泊尔境内的迦毗罗卫,是释迦族的一个王子。关于他的生卒年月,在南、北传佛教中,至今仍有种种不同的说法,但一般认为生活于公元前6~5世纪。他在青少年时即感到人世变幻无常,深思解脱人生苦难之道。29岁出家修行。得道成佛(佛陀,意译觉者)后,在印度恒河流域中部地区向大众宣传自己证悟的真理,拥有越来越多的信徒,从而组织教团,形成佛教。80岁时在拘尸那迦逝世。    
仏教略史 起源 仏教創建時,インドはすでに封建制度によって領主が統治する農奴社会に入っていた.当時のインドは伝統として吠陀天启,祭祀万能とバラモンを至上とする三つの信仰と,バラモンを一切智の独占者,また神権統治の代表的地位とするものであったが,それも不安定になってき,多くの人の非難の的になっていた.(そういう状況下において,)自由思想家の中から反伝統的な信仰形態としての出家をするという思想傾向が出現してきたのである. 仏教もその出家思想に属する一つである.創始者である釈迦牟尼は現在のネパールの国境付近のカピラ城で釈迦族の王子として生まれた.かれの生死の年月に関しては,南伝・北伝それぞれの仏教の中で,今に至ってなお様々な違う見解があるが,一般的には紀元前6〜紀元前5世紀にかけて生存していたとされている.かれは少年時代から青年時代にして人の世の変幻して常なることがないのを感じ人生の苦難から開放される道に深く思いを寄せたのであった.そして二十九歳にして出家し修行し始めるのである.さとりを得,仏に成った後,インドのガンジス川流域の中部地区において大衆に自己の証悟の真理を説き述べ,大勢の信徒を擁し,それによって教団も組織され,仏教として形成されるのである.そして八十歳になった時クシナガラにて入滅するのである.
変化
演变佛教创立后,在印度几经演变。佛陀及其直传弟子所宣场的佛教,称为根本佛教。佛陀逝世后,弟子们奉行四谛、八正道等基本教义,在教团生活中维持着他在世时的施设和惯例。由于佛陀生前在世时于不同场合对不同的对象有着不同的说法,弟子们对此便产生不同的理解。约在佛来后100年,佛教分裂为上座部、大众部两大派,称根本二部。此后100余年间续有分裂,先后分成十八部或二十部,称技末部派。关于部派分裂的次第、年代、名称、地区均有不同的说法。当时佛教传播的范围,北至喜马拉雅山麓,南至基斯那特河(克里希那河)。一般认为由上座部直接分出的最大一部是说一切有部。上座部(以说一切有部为代表)和大众部在教义上有较大差别。两在部的主要差别是:@对法(事物、存在)的认识。大众部认为“过去未来,非实有体”、“现有体用,可名实有”,即认为一切现实都依因缘生灭,过去的已经灭了,没有实体,未来的没有生起,也没有实体,仅仅现在一刹那中才有法体和作用;说一切有部主张法体是永恒存在的,过法、现在和将来三世也都是实有的,即所谓“法体恒有”、“三世实有”,被称为我空法有论。A对佛陀的认识。大众部认为生灭于人间的释迦牟尼佛是化身而非实身,佛陀的实身是积累极长期的修行而成,他有着无际的寿命和威力,所说一切言语为随机说法,并以一音说一切法;说一切有部不承认释迦牟尼是化身,认为佛说言语并非都是经教,也并不是一音说一切法。B对声闻和菩萨的认识。大众部强调菩萨广度众生的慈悲愿力,轻声闻而贵菩萨;说一切有部虽承认声闻、缘觉、菩萨能修行根性和所修行道路有差别,但认为佛与声闻、缘觉所得解脱没有差异。

変遷 仏教創立後,インドでは幾度かの変遷を経験する.そして,仏陀とその直弟子が説き伝える仏教を根本仏教と呼称するようになるのである.仏陀入滅後,弟子たちは四諦・八正道等の基本的な教えを実行し,教団での生活では仏陀在世時の施設としきたりを維持していたのである.仏陀は在世時,状況の異なりや対象の異なりで説かれ方も異なったため,これに対して弟子たちの間でも理解の相違を生じることとなった.仏滅後百年,仏教教団は上座部と大衆部の二つの大きな派に分裂するのであるが,これが根本二部と呼ばれるものである.この後百年余りの間分裂をし続け,枝末部派と呼ばれる,前後十八部或は二十部に分かるものになるのである.部派分裂に関しての経緯,年代,名称,地域には,それぞれ違う見解がある.当時仏教の伝播範囲は,北はヒマラヤ山麓から,南は〈克里希那河〉に至っていた.一般に認められているものとして,上座部から直接分かれ出た最大の派である一切有部である.上座部(一切有部と言うことで上座部の代表とする)と大衆部には,教義上に比較的大きな違いがある.二つの部における主要な違いとして:@法(物事,存在)に対する認識.大衆部においては,「過去・未来に実体はない」「現在にはたらき(用)があり,それを実有という」,即ち一切の現実はすべて因縁に依って生滅すると考える.過去はすでに消滅し,実体はない.未来はまだ生起せず,やはり実体はない.わずかに現在一刹那の間に法体とはたらき(作用)があるだけである.;一切有部の主張では法体は恒久の存在であり,過去・現在・未来の三世のすべては実有であり,所謂「法体は永久に不変で有であり」,「三世は実有である」と説き“我空法有論”と称するA仏陀に対する認識.大衆部は人間の釈迦牟尼における生滅は化身であり実の身ではなく,仏陀の実の身は長い間の修行によって蓄積され形成されたものであり,寿命と威神力は無限である.一切の話された言語は「随機説法」であり,一音で一切の法を説かれるものである.;一切有部は釈迦牟尼仏が化身であることを認めず,仏の説かれた言語はすべて「経教」ではなく,また一音で一切の法を説かれないという.B声聞と菩薩に対する認識.大衆部は菩薩は一切の衆生の“慈悲願力”であると強調し,声聞を軽んじて菩薩を重んずるのある.;一切有部は声聞・縁覚・菩薩における修行上の性格と修行の道(方法)に違いがあることは認めるが,しかし,仏と声聞,縁覚の悟りに差異がないものと考える.
大乗
公历纪元前后,在佛教徒中流行着对佛塔的崇拜,从而形成了大乘最初的教团--菩萨众。他们中间一部分人根据《大般若经》、《维摩经》、《妙法莲华经》等阐述大乘思想和实践的经籍,进行修持和传教,形成了中观派(空宗)和瑜伽行派(有宗)两大系统,而将早期佛教贬称为小乘。佛陀逝世后约500年,大乘中观派兴起。此派创始人龙树,阐发“空”、“中道”、“二谛”的思想,其弟子提婆继续弘扬龙树的学说,使大乘佛教得以进一步发展。以后还有清辩和佛护、月称等从不同的角度阐发中观的思想,形成自续派和应成派。同时,小乘佛教中的说一切有部、经量部等,仍继续发展。

西暦紀元前後,仏教徒の中では仏塔を対象とした崇拝が広く行われ,それによって大乗としての最初の教団−菩薩衆−が形成された.彼らの中の一部の者は,『大般若経』『維摩経』『妙法蓮華経』等の詳しく大乗の思想と実践が述べられている経典によって修行と布教を行い,(それによって)中観派と瑜伽行派の大きな二つの系統が形成された.そして初期仏教を貶めて小乗と称したのである.仏陀が入滅して約五百年の後,大乗中観派が興る.この派の創始者は竜樹で,「空」「中道」「二諦」なる思想を明らかにし,その弟子の(提婆)は竜樹の学説を引き続き発揚し,それによって大乗仏教をいっそう発展させたのである.その後は清弁と仏護,月称等による多角的な中観思想の解明によって,自続派と応成派が形成され,同時期には,小乗仏教における説一切有部・経量部等が変わらぬ発展を続けていた.
ヨガ
佛陀逝世后约900年,瑜伽行派兴起。此派尊基人是无著和世亲。无著原是说一切有部僧人,因对说一切有部教理感到不足,而阐发大乘教义。其弟世亲,原是说一切有部学者,后从无著改宗大乘,称“千部论师”。无著世亲弘扬“万法唯识”、“三界唯心”的唯识论,此后传承主要有难陀、安慧、陈那、护法之后还有戒贤、亲光等。
  

仏陀が入滅して約九百年の後,瑜伽行派が興起する.この派の開基は無着と世親である.無着はもと説一切有部の僧侶であり,説一切有部の教理に満足できず,大乗仏教の教義の解明にあたった.その弟の世親は,同じくもと説一切有部の学者であり,後に無着から大乗に改宗を勧められ,千部の論師と言われるようになる.無着と世親は「万法は唯識である」「三界は唯心である」という唯識論を発揚した.この後主な伝承者としては難陀,安慧,陳那,護法が挙げられ,その後には戒賢,親光などがいる.
密教
7世纪以后,印度密教开始流行,到8世纪以后,与印度教相接近。波罗王朝在那烂陀寺以外另建超戒寺,作为研习和宣传密教的中心;9世纪后,密教更盛,相继形成金刚乘、俱生乘和时轮乘。11世纪起,伊斯兰教的势力逐渐进入东印度各地,到13世纪初,超戒寺等许多重要寺院被毁,僧徒星散,佛教终于在南亚次大陆消失。
 

七世紀以後になると,インドにおいて密教が流行し始める.八世紀に至っては仏教の教相に接近することになる.「bo1luo2王朝時代には那lan4陀寺院のほかに超戒寺が建立され,密教の研究と伝道の中心となった.九世紀に入ると,密教はますます盛んになり,相次いで金剛乗・倶生乗と時輪乗が形成される.
世界へ中国へ
传播 佛教原来只流行于中印度恒河流域一带。孔雀王朝时期,阿育王奉佛教为国教,广建佛塔,刻敕令和教谕于摩崖和石柱,从此遍传南亚次大陆的很多地区。同时又派传教师到周围国家传教,东至缅甸,南至斯里兰卡,西到叙利亚、埃及等地,使佛教逐渐成为世界性宗教。  佛教向亚洲各地传播,大致可分为两条路线:南向最先传入斯里兰卡,又由斯里兰卡传入缅甸、泰国、柬埔寨、老挝等国。北传经帕米尔高原传入中国,再由中国传入朝鲜、日本、越南等国。  佛教向斯里兰卡传播,约在公元前3世纪的孔雀王朝时期。阿育王曾派他的儿子摩哂陀去斯里兰卡传授上座部佛教。公元前1世纪,斯里兰卡出现了两个佛教派别:大寺派和无畏山寺派。3世纪上半叶大乘佛教传入斯里兰卡,在无畏山寺派中又分出了南寺派。5世纪初,觉音用巴利语对南传三藏进行了整理和注释,确立了上座部教义的完整体系。大寺派被认为是南传佛教的正统派。缅甸、柬埔寨、老挝等国的佛教都承受斯里兰卡大寺派的法统。12世纪以后,由于外族和殖民主义者的侵入,斯里兰卡佛教曾两度受到破坏,后再由缅甸和泰国重新传入。上座部佛教由斯里兰卡传入缅甸约在4~5世纪。11世纪中叶,薄甘王朝的阿奴律陀王,建立缅甸最早的统一封建王朝,曾奉大寺派佛教为国教。以后历代王朝都保护佛教,建立了大量雄伟华丽的佛塔,如18世纪所建仰光大金塔等。
  佛教由斯里兰卡传入泰国约在12世纪左右。13世纪,泰国素可泰王朝宣布奉佛教为国教。18世纪曼谷王朝诸王都笃信佛教。19世纪中叶以后,拉玛四世对佛教进行改革,形成新旧两派,绵延至今。1919~1927年刊行了全部三藏注释及藏外典籍。泰国目前是东南亚佛教兴盛的国家,被称为“僧侣之国”。  5~6世纪时,佛教传入扶南(早期柬埔寨),当时大小乘兼传。6世纪扶南改称为真腊,宗教信仰为大小乘佛教和印度教同时存在,这明显地反映在宗教仪式和9~12世纪吴哥城的许多宫殿建筑上。14世纪中叶后,柬埔寨沦为泰国的属国上座部佛教随之传入。以后,老挝又从柬埔寨传入上座部佛教。
  从5世纪起,佛教开始传入印度尼西亚的苏门答腊、爪哇、巴厘等地。据中国高僧义净的记述,7世纪中叶印度尼西亚诸岛小乘佛教盛行,以后诸王朝都信仰大乘佛教与印度教;至15世纪伊斯兰教开始盛行。
 
  约在公历纪元前后,佛教传入中国。在汉代被视为神仙方术的一种。至南北朝时传播于全国,出现了很多学派。隋唐时期进入鼎盛阶段,形成了很多具有中国民族特点的宗派。宋代以后,佛教各派趋向融合,同时儒、佛、道的矛盾也渐趋消失。7~8世纪佛教分别由印度和中国汉族地区传入中国西藏,至10世纪中叶后形成藏语系佛教,后又辗转传到四川、青海、甘肃、蒙古和俄国布利雅特蒙古族居住的地区。  大约在2世纪末,佛教从中国传入越南。在4~5世纪时获得广泛传播。10~14世纪,越南佛教进入兴盛时期。泰国和缅甸佛教对越南佛教也产生影响。  4世纪后半叶佛教由中国传入朝鲜高句丽。7世纪新罗王朝统一朝鲜半岛后,由中国传入的华严宗、法相宗、律宗、禅宗都很盛行,以后禅宗尤为兴盛。14世纪末刊行了《高丽藏》。14世纪李氏王朝虽然一度采取排佛崇儒的政策,但朝鲜佛教仍然有所发展,17世纪中叶以后开始衰落,至近代又有所复兴。  6世纪,佛教从中国经朝鲜传入日本,此后一直成为日本的主要宗教。7世纪初,圣コ太子在《十七条宪法》中要求全体臣民“皈依三宝”。从中国隋唐时期开始,日本向中国派出了大批留学僧,中国佛教的主要宗派相继传入日本。12世纪以后,日本佛教形成很多民族化的宗派。  在印度阿育王时传至叙利亚、埃及等国的佛教,以后又传到非洲一些地区,但影响不大。  约在19世纪末和20世纪初,佛教先后传入欧洲和北美。1906年英国成立“英国佛教协会”,欧洲佛教徒开始有自己的组织。以后英、法、コ、瑞士、瑞典、捷克斯洛伐克、匈牙利等国都有佛教僧团和研究机构。佛教传入美国后,又北传加拿大,南传巴西、秘鲁、阿根廷等国。  目前佛教已传播到世界各大洲。但主要仍集中在东亚和东南亚一带,这个地区的佛教信徒人数远远超过其他宗教信徒。


 四世紀から五世紀にかけて上座部仏教はスリランカからミャンマーに伝わる.十一世紀の中ごろには“薄甘”王朝の“奴律陀”王がミャンマー最初の統一した封建王朝を打ちたて,大寺派仏教を尊重し国教とした.以後歴代の王朝下において仏教はすべて保護され,雄大且つ華麗な仏塔が多く建立された.例えば,それは十八世紀に建立された“仰光大金塔”等である.仏教がスリランカからタイ国に伝わったのは,およそ十二世紀前後である.十三世紀にはタイ国“素可泰”王朝下で仏教推進の改革を宣言し国教とした.十八世紀の“曼谷”王朝に至っては諸王はみな仏教を厚く信仰した.十九世紀半ば以降,ラマ四世は仏教に対し改革を推進し,新旧両派が形成されるにいたり,延々と今に至るまで続いている.1919年から1927年にかけて,全ての三蔵(経・律・論)に関する注釈及び三蔵以外の典籍を刊行している.現在のタイ国は東南アジアにおいて仏教が最も盛んな国として,“僧侶の国”と呼ばれている.
 五世紀から六世紀にかけて,仏教は“扶南”(早期カンボジア)に伝わるが,その際,大乗・小乗ともに伝えられている.六世紀に入ると“扶南”は“真”となり,宗教は大・小乗仏教とインド教が同時に(混然と)信仰さえる存在となり,これらは宗教儀式や九世紀から十二世紀にかけての“呉哥城”の多くの宮殿建築に明らかに反映されている.十四世紀の中ごろから,カンボジアはタイ国の従属国になり(落ちぶれ?),その時に上座部仏教が伝わった.以後,ラオスにもまたカンボジアから上座部仏教が伝わることになる.
 五世紀以後から,仏教はインドネシアの“スマトラ(蘇門答蝋)”、“ジャワ(爪哇)”やバリなどの地に伝わる.中国の高僧“義浄”の記述によれば,七世紀中ごろインドネシア諸島において小乗仏教が盛んに行われた.以後その他の王朝においてはみな大乗仏教とインド教が信仰されている.(十五世紀に至ってイスラム教が盛んに行われるようになる.) およそ紀元前後に,仏教は中国に伝わったが,当時の漢王朝は神仙方術の一種と見なされていた.南北朝時代になって仏教は全国に伝わり,多くの学派が出現することになる.隋・唐の時代にはまさに最高潮期の段階に入り,多くの民族的特長を具えた宗派が形成された.宋代以後は,仏教各派が融合する方向へ向かい,同時に儒教,仏教,道教などの(互い間における)矛盾点も次第になくなっていった.七世紀から八世紀にかけての仏教は,インドと中国の漢族地区が分かれるに随って中国のチベットに伝わり,十世紀中ごろからチベット語の仏教が形成され,以後四川・青海・甘粛・モンゴルとロシアの“ブリアト(布利雅特)”モンゴル族居住地区に転々と伝わっていく.
  およそ世紀末に,仏教は中国からベトナムに伝わる.4世紀から5世紀にかけて広く普及し,10世紀から14世紀にかけてはベトナム仏教は最盛期に突入した.タイ国とミャンマーにおける仏教はベトナムの仏教に対しても影響を及ぼした.
  世紀後半ころ仏教は中国から朝鮮高句麗に伝わり,7世紀新羅王朝が朝鮮半島を統一後は,中国から華厳宗,法相宗,律宗 禅宗が伝わりみな大いに教勢を奮った.それから後は特に禅宗が興隆することになる.14世紀末には『高麗版大蔵経』が出版された.同じく14世紀の李氏王朝において,一度は仏教の排除と儒教の崇敬といった政策が採られもしたが,しかし朝鮮における仏教の教勢は依然としてある程度の発展をする.そして,17世紀中頃以降には衰退を始め,近代またある程度復興するに至っている.
  六世紀,仏教は中国から朝鮮を経て日本に伝わった.その後ずっと日本における主要な宗教となった.7世紀初頭,聖徳太子は『十七条憲法』の中で,すべての臣民に「帰依三宝」することを求めている.(求めた?) 中国の隋唐の時代から日本は多くの僧侶を留学させる為,中国に向けて派遣を始めた.(遣隋使・遣唐使である) 12世紀以降,日本仏教は多くの民族的宗派として形成された.
 インドの“阿育王”時代にはシリア・エジプト等の国に仏教が伝わり,以後またアフリカ大陸の一部の地域に伝わりもしたが,けっしてその影響は大きいものではなかった.およそ19世紀末から20世紀初頭の前後に,仏教はヨーロッパと北米に伝わっている.1906年イギリス国が成立して“イギリス国仏教協会”が設立され,ヨーロッパの仏教徒は個人的構成をし始めた.それ以降,イギリス・フランス・ドイツ・スイス・スウェーデン・チェコスロバキア・ハンガリー等の首都には仏教僧侶の団体と研究機関が設けられた.仏教がアメリカに伝わった後には,また北に向けてカナダに伝わり,南に向けてはブラジル・ペルー・アルゼンチン等の国に伝わった.目下仏教はすでに世界の各大陸に普及している.しかし主要地域としては依然東アジアと東南アジア一帯に集中していて,これらの地域の仏教信徒の人数は,はるかにその他宗教の信徒の数を上回っている.



日中文化交流
情報更新は2002年4月4日



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